このサイトは、終活を正しく伝えることを目的にしています。
終活といえば、一般的に人生の終わりに向けての活動というふうに知られています。
自分の身辺を整理し、まとめた個人情報を遺された方に伝える。そういうふうに。
しかし、終活をそのように理解してしまうと
- 面倒くさい
- まだ先の話
- 自分には財産がないから関係ない
あるいは、誰にも(家族にも)財産があることを知られたくない - 家族がいない
あるいは、家族間の関係性が好ましくない - ご自身の情報を知られたくない
といった感情から、終活をしない、あるいは終活を遅らせる原因になってしまいます。
それぞれに状況があるので、終活の必要性を説いたところで響かない方がおられるのは仕方のないことだとは思います。
終活をしない、あるいは終活をしない内に認知症になってしまうとどうなるのでしょう。
もし、あなたが終活をする前にこの世を去る、去らずとも認知症になってしまえば、この世に遺されたご家族、ご親類だけではなくご近所や関係各所にご迷惑をかけてしまうことになります。
ご迷惑をかける状況になったとしても、
「自分は死んでしまうから」
「認知症になってしまえば何も分からなくなるから」
自分には関係がない。
そんなふうにお考えになる方もおられるでしょう。
少し話は変わりますが、「こんな夜更けにバナナかよ」という作品がありました。映画で公開されたのでご存知の方もおられるでしょう。
内容をご紹介しますと、進行性筋ジストロフィーという難病を抱えた鹿野という方とボランティアの交流を綴ったものです。
進行性筋ジストロフィーという病気は全身の筋肉が衰えていく病気なので、24時間の介護を必要とします。普通に考えれば、つきっきりでそれも無償で寄り添ってくれる方には感謝せざるをえないはずです。
しかし、鹿野氏の態度は介助をしてもらっているというよりは、介護をさせてやっているといった、むしろ横柄なものでした
※地域共生社会の見地からすれば、障がい者に対し「してもらっている」「させてやっている」という発想はありません。ここではわかりやすくご紹介するために、このような表記をしています。
「こんな夜更けにバナナかよ」というタイトルが示す通り、真夜中に腹が減ったからと仮眠をとっているボランティアを平気で起こすような性格の持ち主でした。
なぜそんな彼のもとにボランティアが集ったのか。そして彼の葬式に多くの人が集まったのか。
障がい者ではなく人間として振舞った鹿野氏の態度に理由がありました。彼の態度は人間として立派なものとはいえないものでしたが、全てをさらけ出した人間味に魅力があったのでしょう。
「なんだ、それなら自分本位で良いんじゃないか。自分も」
という話の例として鹿野氏を持ち出したのではありません。
このお話でわたしが思ったのは、「(死んでしまえば)どれだけ人に迷惑をかけても関係ない」と思う人間の死に、どれだけの人が葬式に集うかということです。
それこそ「(この世を去ってしまえば)自分の葬式にどれだけの人が集おうか知ったことじゃないか」という話になりかねませんが、五体満足で健全なあなたが(葬式にどれだけの人が集まるかなんてどうでもよい話ですが)それこそ自分の気持ち次第でなんでも(それこそ葬式に100人を集わせようと思えば)できそうなのに、あえてそうはせずに、自分の死んだ後も他の人に迷惑をてかけようとするのか、ということです。
自分は大した人間ではないと思うのなら、せめて去り際くらいは、と思うのは人情ではないでしょうか。
そういう思いに共感される方向けに、情報を提供をしたくサイトを立ち上げました。
